苦悩する都市
Seoullo 7017, Seoul / High Line, New York / Rooftop garden, New York
近年、欧米に限らず、世界の各地でエコロジー気運の隆盛と共に、地下鉄、トラム、そして自転車や電動キックボードなどが増えていますね。ずいぶん以前に訪ねたアジアの国々では、自転車が重要な荷物の搬送手段となっていて、輪タクなども数多く見掛けました。その後は、原動機付きスクーターやバイクの時代になり、アジアの各地では今でも数多く見掛けます。問題は、歩道を歩くこともままならないほどに路上に溢れた多数のスクーターやバイクですね。排気ガスも問題です。当時は、冬場には冷たい風除けのためコートなどをハンドルに掛けて疾駆する光景には微笑ましさもおぼえましたし、日本のメーカーが圧倒的に多かったことも誇らしく感じましたが、駐輪と排気ガスは、未だ解決が難しい問題ですね。
電動自動車やバイク、電動キックボードなどは一見エコに感じられますが、これらの電源供給や発電施設はどのように維持されているのだろうかと少々気になります。おそらく、将来は個々の家庭や施設の自家発電のシステムが必要なのでしょう。
また、近年のAIなどの普及に伴い、巨大なデータセンターの建設が進んでいますが、この話題は、またAIについて論じることができればと思いますが、膨大な電力と冷却水などが消費されることには矛盾も覚えますね。私はと言えば、時折熱くなり過ぎて働かなくなった頭を水道水で冷やす程度ですが。
ところで、街中を自転車やキックボードなどが走り回り、時折ヒヤリとすることが増えました。特に小さな路地や観光地を我が物顔で走る自転車やキックボードは少し怖いですね。自動車、自転車やバイク、そして歩行者が共生しなければならない今日の都市構造は、すでにその限界にあるようにも思われます。幾つかの都市で見掛けた歩道と自動車や自転車道路を分離した回廊形式はひとつの方法ですが、ひとつのトピックとしては良いのですが、根本的な解決になるのだろうかと思われます。そう言えば、夕方の散歩では多数のジョギングの集団にも出会います。そろそろジョギングのためのハイラインができそうですね。
Aiは、私たちの脳の代理
人工知能という文言を眼にしたのは、いつ頃だっただろうかと、すでに記憶もおぼろげです。ということで、早速AIに尋ねてみました。
驚くことに、人工知能のアイデアは古代に遡るとのこと。古代の職工や知識人が修練の後にさらなる高みに至り、人智を超越する状況、いわゆる神がかりとなることも指しているようで、これらは錬金術や神秘学とも深く結びついているようです。そう言えば、十代の頃、人造人間の起源でもあるオートマタ(Automata, Automaton、機械人形)の妖しさにしばらく魅せられたことがありました。ヘロンのオートマタなどは懐かしい話で、これらの構造を基に何か作れないものかと思考錯誤したこともありました。日本では「からくり人形や傀儡(くぐつ)」などとも呼ばれる装置ですが、人間の代理としての人型のからくり人形、いわゆるチャペックのロボットなどは今日まで続く概念ですね。デカルト等が人間とは何かと探求した機械論は、後にデジタル、つまりはコンピュータと結び付くことにより、新たな思考する(?)ロボットを創り出しているということなのでしょうか。
パーソナル・コンピュータを組み、何とかプログラミングの自学を始めた頃に何気無く手にした一冊に衝撃を受けたことがありました。邦訳でしたが、ジョセフ・ワイゼンバウムの『コンピュータ・パワー 人工知能と人間の理性(Computer Power and Human Reason)』でした。この本に登場するELIZAは、私のプログラミングへの概念をすっかり変えてしまいました。ELIZAは、今日のAIと同様に、いわゆる自然言語処理プログラムですが、精神療法を基にELIZAは医師の役を演じ、患者に何かアドバイスをする訳ではなく、患者自らが答える言葉を、言わばおうむ返しするプログラムでした。患者は、ELIZAが答える回答から自らを診断し、またELIZAから適確な診断を得たと錯誤するのです。患者自らが自己分析を行うため、ELIZAは「人工無能」とも称されました。一方、ワイゼンバウムは、被験者がいとも容易に懐柔されることから、人間の思考を阻害し、倫理にも抵触するのではと悩まされたようです。ノーバート・ウィナーの通信に関わるウィナー・フィルタの試みも面白いのですが、どうも優れたプログラマーや研究者は、自らからが構築した世界や陥穽にはまってしまうことが多々あるようです。
ユーザーや被験者が、巨大なデータセンターから発される詳細な回答やアドバイスを多様に得ることができる今日のAIは、一見ユーザーの知見や知識を拡張しているかに見えて、むしろ人間自らの思考や洞察を阻害するのではないかとの危惧も呈されています。つまりは、反照として、人は思考することをやめてしまうのではないかとも危惧されるのです。言わば「人間無能」の状況です。結果として、過去の書籍やメディア、インターネットなどから蒐集している情報も、次第に枯渇してしまう自縄自縛に陥るおそれもありそうです。
Joseph Weizenbaum,"Computer Power and Human Reason", 1976
ジョセフ・ワイゼンバウム『コンピュータ・パワー 人工知能と人間の理性』(サイマル出版会、秋葉忠利訳、1979年)
美術・デザインを学ぶこと
美術を学ぶ人の多くが、美術学校や美術大学に入学すると、まずデッサンやドローイングから学ばなければなりません。すでに受験生、そして浪人時代に幾年も繰り返してきたことなのに。モティーフやオブジェと呼ばれる対象を観察することから始まり、これらの対象が置かれた空間、そしてそこに射す光線、そして陰影を把握することと教わります。このような基礎技術を学んだ後に、自らの概念や表現を試みるように教わります。けれども、基礎としての表現技術を良く習得し、優れた描画技術を習得した画家やデザイナーでも、次の段階の自らの概念や表現を試みることという過程において行き詰まる事例が多々見受けられます。私は、まったく不勉強な学生でしたが、一体幾年をも、物言わぬ石膏像や野菜や果物を黙然と描くことを強いられてきたのでしょうか。良い画家やデザイナーになるための苦しい道程として経なければならないという雰囲気はどのようにして醸成されてきたのでしょうか。未だ、冷たい石膏像を前にして黙然とデッサンしている苦学生に、少し眼を転じてみてはと一言声を掛けたくなります。
日々、思うこと
例えば、衣服の多くは、下着にしてもその縫い目やタグを衣服の裏側に付すのでしょうか。衣服とは、本来の役割を考えれば、身体を保護し心地良さを育むものでしょう。肌を保護するためには、縫い目やタグは、衣服の表にあるべきでは。新生児用の肌着は縫い目は表にあるということですが。
少し調べてみましたが、その起源はよく分からないのですが、ファッションとしてのブランド形成とも関係があるようです。また、近年、首筋などにうるさく触るタグをプリントに替えた「タグレス」が増えているとのことは良い傾向ですが。また最近、縫い目がないシャツや肌着も登場していますが、なかなか満足できるものがありません。もう永らく肌着は裏返して使用しています。何か、事故にでも会って、病院で見られたら困るなというおそれもありますが。
縫製の都合や外形の美しさを求める要もあるでしょうが、醜い縫い目が表にあっても良いじゃないかというのは、乱暴な話でしょうか。縫製や醜い身体を敢えて見せることを謳ったファッションデザイナーもいましたが。
近年の道具の多くは多様な機能を誇り、私たちの生活を便利で効率の良い状態にして、かつ新たな利便性や可能性をもたらしましたが、一方では使う人、ユーザーに新たな使役を強いるものでもあります。箒(ほうき)や電気掃除機は、掃除をしなければならないという感情を、無言のうちに私たちに与えています。電気洗濯機は、努めて洗濯をしなければならないという思いを生み出すのです。このようにして、私たちは効率や利便性を求める一方、新たな仕事を増やし続けているとも考えられます。果たしてより良い道具、良いデザインとは、一体何でしょうか。
CMとデバイス
最近、テレビジョンやパーソナルコンピュータのディスプレイなどを介してCMを見ると、頻繁に提示されることのうるささの他に、画面に表れる文字やキャラクタがやたらと大きく表示されるようになったように思います。実際に、数年前のTVCMなどと比べても、その変化に気づきます。その要因は何でしょうか。
ようやく広告代理店に新米のデザイナーとして就いた時期、雑誌広告の文字を極力小さく扱え、コピー(本文)には中明朝体、キャッチもなるべく小さくしろと指示されたことを思い出します。その方が、よりスマートにモダンに見えるとのことでした。けれども、新米の私は、消費者はキャッチを目にして、さらにコピー(本文)を読んで、ショップに足を運ぶのではとばかり思っていました。つまりは、イメージ戦略の時代だったのですね。
近年、インターネット・ユーザーの多くが、スマートフォンやタブレットなどで閲覧しています。小さなスマートフォンのディスプレイでのCMなどのアイキャッチには、大きなキャッチやアイコンをよりズームアップすることに腐心していることが読み取れます。
ひるがえって、テレビやコンピュータは、誕生以来、処理速度に加えてティスプレイの解像度の向上に腐心してきました。結果として表示速度も向上し、4G・5G、4K・8Kなども登場するに至りました。解像度を高めることは、リアリティを向上するだけでなく、情報量の向上が目的でした。小さな文字でも認識できれば、情報量も増えます。
けれども、最近の4KTV,8KTVの苦戦を鑑みる(かんがみる)と、多くの消費者の関心事と解像度、そしてリアリティとは異なった域にあることが分かりますね。そしてスマートフォンも、4G・5G、4K・8Kと機能はさらに高まっていますが、先のCMの現状は少し先祖帰りしたというべきか、ずいぶん昔に視聴していたスローガンを連呼するようなテレビの時代を想起させてしまいます。
手にするもの
靴下の一大生産地の奈良県のメーカーから購入した靴下には、それぞれにRとLが縫い込まれていました。一般的な靴下は左右両用のため、いつもどちらが右で、どちらが左かと迷います。少し履き慣れて親指の出っ張っている所を探して履いています。5本指靴下や足袋型靴下は迷うことがなくて便利です。右と左の目印が何か、あると良いのですが。RとLでも良いですし、左右の色違いでも良いのですが。また、どちらが履き古して穴でも空いてしまったら、片方だけ交換してもらえるようなサービスがあれば、また幸いですね。
スマートフォンも左手で使用するのは、横書きの文章の先頭が読めなかったりと、少し不便ですね。書字方向を左右入れ換えるようにできればとも思いますが、何か、ずいぶん古い本を読んでいるような気分になりそうですね。ともかくも左右の違いに悩む製品が数多くあって、いつも迷います。足袋は下駄や草鞋 (わらじ )を履くために分かれていたのでしょうが、ずいぶん以前に地下足袋のカタログ制作を担当したことがあったのですが、山歩き用、沢 (川 )歩き用などと、形の違いに加えてゴム底の波模様が異なっていて多種多様な地下足袋があることに感心しました。しかし、地下足袋はなぜ親指が分かれているのでしょうか。歩く際には親指が支点となって踏ん張れるからという理由も分からないでもありません。かんじきなどを上から履くためというのもありそうです。最近は、カラフルでファッショナブルな地下足袋もあり、地下足袋に魅せられたファション・デザイナーも居たほどですから、もっとも普及してもよさそうですね。名称も、もう少しファッショナブルにしたいですね。 Jika-tabiとか、 Jika bootsというのも、すでにあるようですが。
視覚心理とデザイン
先日再読していた本に「ゲシュタルト崩壊Gestaltzerfall」という文言がありました。何のことかと少し調べてみましたが、 「文字や図形などをじっと見つめ続けることで、本来まとまりとして認識していた全体像が失われ、個々の要素にバラバラに見えてしまう知覚現象」との解説がありましたが、物事の細部に捉われると、全容や大事な箇所を見落としてしまうということですね。
絵を描いたり、何かを制作していると、細部を描いたり作ることにばかり捉われて、全体をみるとバランスが壊れていたり、何のために制作しているのかと疑問が湧いたりというのもありますね。
最近出掛けたローカルの鄙びた(ひなびた)旅館では、廊下、露天風呂、部屋の隅々にも、様々な禁止事項が貼り出されていて、せっかくのリゾート気分もさっぱりという思いでした。日本は、街中や公共施設内でも、特にこれらの注意書きが多い国のようです。コンプライアンスとか、法令遵守とか、面倒を回避したい国民性、思いやりが過剰な日本人などというが要因なのかもしれませんね。欧米の街を歩いても、何の表示も無くて迷うこともありますね。けれども、静かで何の指示も見ない街では自身の生存本能が蘇ったようで、また快適です。
また先日、「うるさい日本 …」というタイトルの本を一読しましたが、様々な過剰な指示により確かに自身の意思や思考が次第に萎えていく感覚に捉われてしまうようにも思われますね。そう言えば、自宅のトイレットは少し頑張って機能性で選びました。瞬時に自動で開閉し、様々に指示もされて快適ですが、用を足している背後に気が効く執事でも立っているようで、少し落ち着かなくなります。もっと静かに満足感に浸りたいのですが。話題が少し逸れました。
素材と選択
ずいぶん以前に書き留めていた文章なので、借り物の箇所が多分にあるやもしれません。
永らくお世話になっている機器や家具が次々に壊れるようになりました。まず、ゴムがポロポロと崩れてしまったり、美しかったプラスチックや樹脂の筐体もずいぶん黄ばんでしまいました。このような退化したというのか、古びてしまったところに愛着も生まれるところですが、交換部品を探しても、すでに保証期間も切れて、部品製造中止というのも多々ありますね。エコロジーやリサイクルが謳われる時代、さすがに新製品の発売と同時に部品も用意しているメーカーも増えてきましたが、用具や製品の各パーツの耐用年数や交換予定の時期も記載があると、より幸いですね。
第二次大戦後の日本は様々な分野で資源や物資不足に悩まされました。古新聞紙、雑誌等の古紙、竹、木材、藁(わら)等が依然として用いられ、購入した食品や器物を古新聞に包んで持ち帰っていました。陶器や機器の運送にも、木屑や藁が梱包や緩衝材として用いられていました。やがて、戦後の復興と共に、新素材としてプラスチックやビニール、ゴム等の化学系、樹脂系と呼ばれる素材や製法が数多く開発され、従来の古紙や竹、木材等に置き換えられていきました。復興と共に、用紙や日用品の不足を解消するために、大型機械を用いた製紙産業、繊維産業、そして各地域で細々と製造されていた木や竹工芸等も、大規模、大量生産を目的としてプラスチックや樹脂、ゴム等の素材や製品に置き換わりました。例えば、それぞれの地域に根付いていた木や竹工芸による食器や籠等の製造もプラチックによる機械生産に置き換わりました。このようにして、各地域に根付いていた製紙や織物、伝統工芸の技術や従事者も次第に失われてきました。このような新素材や製造技術が、戦後の急速な復興や大規模産業の転換に、生産工程の簡素化や大量生産を促した事は否めません。けれども、一方では各地域や地方の技術者の減少や各家庭での素材や資源の再利用や自給等の知恵を消失させてきた事も否めない事実です。また、当初は近代の新素材としてもてはやされたプラスチック等が、後世において禍根を残す結果となる事は見過ごされてきました。このように、新たな素材や技術については、技術開発者のみならず、これらを用いて製造した企業やエンジニア、そしてデザイナーも将来においてどのような変化や結果をもたらすかを見通した洞察や行動が必要です。
1970年代は高度成長期にあり、様々な技術や素材が用いられるようになりました。ゴム、プラスチック、ナイロン、ビニロン、ABS樹脂、ポリ塩化ビニル、コンクリートなどが、大量用いられるようになりました。粗悪な玩具や日用品は、メイド・イン・ジャパンとも揶揄されもしました。都内には、プラスチックの未来を礼讃するギャラリーすらありました。そのようにして、簡易の包装素材として用いられていた古新聞紙や竹皮、杉皮、蝋引き紙、麻、藁などは、いつしか忘れられてしまいました。
このようにして、私たちの生活は多くの化学加工製品により埋め尽くされてきました。これらの素材が今日に至る製品製造やデザインが、より容易で安価な製品づくりに寄与したことは言うまでもありません。町中が自転車で溢れるアムステルダムの街では木製ボディの自転車を数多く見掛けました。日本国内にも竹製ボディの自転車もあるとのことですが、このような化学加工素材がなければ、自動車や電車、家庭電気製品、日用品はどのように発展していたでしょうか。例えば、間伐材、竹、紙、石、粘土などの、より新たな加工方法が生み出されていたでしょうか。多くの技術や製品製造は、人間の存続のため、人が使うための道具として生み出され、共に技術は果てしなく改良され成長してきました。このような技術革新が今日の豊かさを育んできました。このようにして人類のため、人のために多様なデザインが生まれましたが、一方、人が生態系、環境において、どのような域にあるのか、関係を持っているのか、省みたいところです。
ロボティックスとデジタライゼーション
Taiwan
いずれの分野も人材不足とのことで、ファストフードレストランや小規模の飲食店でも、タブレットやスマートフォンを用いたオーダーシステムに変わりつつあります。最初は戸惑いながら、ウェイターはどこにと探したものですが、少し慣れてきました。ウェイターとの会話もなくて、オーダーに煩わされることもなくて、少し快適になってきましたが、一見の飲食店ではタブレットでのメニューや写真のみで選択、決定しなければならないため、どんな食材が使用されているのか、他のお客さんや通の客はどのような取り合わせで注文しているのだろうかと、少しアドバイスが欲しいなと思うことがあります。例えば、A+B+Cのセットでは、どの程度の空腹時に、オーダーからどの程度の食事時間を要するのか、どのような満足感を得られるのか、聞いてみたいと思うところです。お客さんのグッドとノットだけでは判断できそうにありません。人材不足で切り替えたオーダーシステムなので、そんなところまで完備することはできないと怒られそうですが、ウェィターにこの店のオオスメは何、ワインやお酒は何が合うなどと相談していたことが懐かしく思われます。
そう言えば、先日曖昧な時間に食事できる所を探し歩いて、小さなやや古い飲食店に立ち寄りました。店内に入った途端に、早く決めろ、高齢者二人でやっているので、忙しくて待ってはいられない、オオスメはこれだというように怒られましたが、なぜか、懐かしい所に帰ってきたという思いでした。しかし、将来はもう少し愛想の良いウェイターロボットが応対してくれるのでしょうか。ロボットが迷ってしまうような嫌味の一言でも言ってしまいそうですが…
乖離するデザイン
先日、webニュースで芳香剤などにアレルギーがある人たちのことを知りました。そう言えば、洗剤から入浴剤、食品から料理まで、過剰なほどの香りや味が溢れていますね。
しばらく趣味と実益を兼ねて、東京スカイツリーが見える街で屋上農園を営んでいました。アスパラガスやトマト、オクラ、茗荷(みょうが)、茄子や胡瓜など、果物は葡萄やブルーベリーなどと季節毎に収穫がありました。食べ切れないほどの野菜や果物は、すでに種子や苗も操作されているとは言え、自然の賜物(たまもの)が有する本来の味を感じさせてくれました。水耕栽培で育てたレタスなども、収穫してすぐに食卓に並ぶ楽しみや醍醐味がありました。東京都内のビルのすべての屋上を農地にすると、どの程度の収穫量になるだろうかとも試算していました。現在の住まいの新興都市では「都心の森」プロジェクトが開始されたとのことですが、次々と高層の建物が消えては、さらに高い建物が屹立(きつりつ)する淘汰が日々見受けられますが、屋上に庭園らしきものはあるけれど、農地ができたという話はあまり聞きません。都市で農業をと考える意図は、都市生活者が本来の味覚や自然に回帰すること、生存するための手段として余暇農業を習得すること、本来のサバイバルや副業や二毛作の生活体系を作り、雨水やコンポストを活用して都市の生ゴミ削減の一環として、さらに若年・中年層の都市生活者の農業従事者を育くむ動機にもなるのではとの思いにありました。
過度に加工され、人工的に付加された香料などが、このような本来の味覚や嗅覚を失わせることに繋がらないか、少しばかり心配になりました。子供の頃、御多分に洩れず悪ガキだった私は、山歩きをしながら摘んでは口にした木苺やヤマモモなど、口一杯に広がった甘味が懐かしく思い出されます。